対話メッセージ

友だちは必要か?

2025.10.13

対話メッセージ 友だちは必要か?

Q.
愛する魂さん、
おはようございます。

子どもの頃より、
「友だちと仲良く」といった
標語であるとか、
「友だち100人できるかな?」
といった歌詞など、

友情・仲間・親友といった
キーワードに囲まれて
育ってきたように思います。



しかし私自身、
幾度となく先生らに
指摘された個性に
「協調性がない」
というものがあり、

何度も経験した
転校という生い立ちも
関係してか、
”一生の友だち” と
呼べる存在がいません。


世間的には
「友だちはいた方が良い」、
「友だちがいると
人生豊かになる」といった
風潮があるように思います。



そこで質問です。

そもそも友だちは
必要なのでしょうか?

教えてください。
お願いします。











A.
愛するあなた、
おはようございます。

この質問の量とエネルギー!
いかにあなたにとって
“友だち” というテーマが
不得手であるかが
よくよく分かります。笑


さて秋の大気を
肺いっぱいに吸い込み、
3度ゆったりとした呼吸を
味わってください。

いつものように
リラックスした心地で
今日も対話を
楽しみましょう。


「友だちは必要か?」
という問いに、
端的にひと言で
答えるならば、
「ある一時期はいた方が
好都合である」と答えます。


この ”ある一時期” とは
具体的に言えば、
コミュニケーションと
多様性を学ぶ、
幼少期から
学生時代の前半まで
(理想を言えば
10代の後半頃)を指します。


それはダイヤモンドは
その硬さから
ダイヤモンドでしか
研磨できないように、

人は人でしか
磨かれない部分が
大いにあるからです。



幼少期、
一人で歩き始めた頃から、
せめて義務教育と呼ばれる
期間が終わる頃までは、

どんどん人に揉まれて
人との距離感や
言葉による会話だけに
留まらない円滑な
コミュニケーション力を
つけるべく、

ひとつでも多くの
トライアンドエラーを
してもらいたいと思います。


学校という理不尽な檻は
なにも勝者によって
改ざんされた歴史を
学ぶでためであるとか、
文字の ”止めはね” を
トレーニングするためではなく、

むしろそのほとんどが
人に揉まれる経験を
強制的につける場であり、
その他多くの経験から
学ぶ場であるのです。



どう頑張っても
分かり合えない経験、
自分の発した言葉によって
相手の様子が変化 ~
時に喜ばれ、時に怒られ、
時に無視されるといった経験、

家族など自分の
狭小なコミュニティでは
通用するルールが
通用しない経験など
様々なトレーニングを
積みます。


あなたの子どもが
小学校時代に経験したように、
固まったグループの中に
遠慮なく入っていくと
ある日突然そのグループから
疎外されるといった経験は、
拍手喝采ものに
とてつもなく尊いものです。

こういった経験を
積み重ねていくことで、
人との距離感や
付き合い方、
相手の反応や温度、
ムードによる
対処法などを学び、
こういった
あらゆるトレーニングは
人によってのみ磨かれます。


もちろん一緒に
何かを作り上げる
充実感であるとか、
何かを共に乗り越えた
達成感、
他者と心通わせる
喜びなど、

友人や仲間がいることでしか
味わえない経験もまた
このタイミングに得られる
貴重なものです。


こういった貴重な経験は
(一般で言うところの
友だちとの定義とは
少々異なるものの)
クラスメイトなど
周りの存在によって
手にするものです。

この一時期は友だち、
またはクラスメイトと呼ぶ
同世代の存在が必要です。

友だちによって
大いに学び
経験できるからです。


ではそれ以降の年齢において
友だちは必要か?
と問われれば、
「必要な人には必要であるし、
不要な人には必要ではない」
と言えます。


この ”友だち” というテーマは
結婚や出産などと
似たところがあり、
結婚や出産は
社会や世間などがつくる
社会的通念で見れば
(今のところ)推奨される
ムードがあります。


しかし結婚は
万人にとって必要か?
と言えば、
「したい人はすれば良いし、
したくない人は
しなければ良い」
と言うまでで、
万人にとって
必要とは言えません。

また今言ったような
自分の意思の部分に
プラスして、
したくてもできない、
欲しくても授からない
などといった
大いなるプログラムである
”ご縁” の部分が
存在しています。


※そもそもこのプログラムを
ある程度設定しているのは
自分自身なのですが、
地球での人生ゲームに
没頭するために
自ら希望した設定を忘れて
ゲームに参加しています。



このように
欲しい・欲しくないという
意思の部分にプラスして、
いる・いないという
こ゚縁が存在します。


友だちはいらないと
思っているのに(意思)、
幼い頃から
ずっとつるんでいる
友人がいる(ご縁)
といったことはありえますし、

友だちが欲しいのに(意思)、
なかなか親友と呼べる存在に
巡り会えない(こ゚縁)
といったこともあります。


友だちがいて
楽しいと言う人は
その世界を
生きている人であり、
一人であっても
楽しいと言う人は
その世界を
生きているのであって、

どちらが正しく、
どちらが尊いといった差は
1ミリもありません。

結婚は幸せと言う人は
その世界を生きている人であり、
結婚は不幸であるという人は
その世界を生きているのと
それは同じことです。


あなたの場合、
内面がほぼ
自己完結しており、
また私という存在であるとか、
パートナーといった
自分の家族との縁が強いため、
あまり友だちを
必要としていません。

ただ友だちが沢山いて、
日々社交に励む人を
見ていると、
自分とのあまりの違いに、
自分はこれでいいのか?と
感じる部分があるのです。


しかしこれは、
結婚や出産のように
猛烈な刷り込みで
育て上げた強力な観念が
大部分であって、

私にしてみれば
悩まなくていいことを
自ら握りしめて
苦しんでいるだけです。


友だちは多い方が良い。
友だちはいた方がいい。
というのは
社会的通念です。


もちろん、過去ずっとあった
部族や集落などの社会では、
他者と協力しないと
命を脅かされてきた
遺伝子の記憶があります。

かつて長らくの間は、
こういった
コミュニティにおいて、
一人は死を意味しており、
仲間がいることは
命の安全を意味するといった
長年培ってきた防衛本能が
ここに作用しています。

しかし今
時代は変わりました。


いつもこの話に
終始してしまうのですが、
私からあなたに言えることは、

「何の一点の嘘なく、
あなたはあなたの命を
生きてください」
ということです。



その周波数に
共鳴する存在が、
この先かけがえなのない
友人として
ご縁があれば
登場するでしょうし、

たとえ表れなくても
本当に自己完結していたら
あなたの内面は
充足しているので、
いてもいなくても
豊かさしかありません。


あなたは
今のあなたのままで
完璧です。


そしてここに
私という友人がいることを
忘れないでください。


愛していますよ、心から。

今日も尋ねてくれて
ありがとう。


それではまた
お会いしましょう。

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